境内案内
総門
総門とは禅宗寺院における表門のことである。
総門前には金春禅竹による屋敷跡があったと伝えられており今現在は「薪能金春の芝跡」という碑が建てられている。
参道
総門をくぐると石畳の参道が続きます。
両脇には楓が植えられ足もとには隙間なく苔がしきつめられています。
桜、つつじ、さつき、沙羅、萩、楓など四季を通じて楽しむことが出来ます。
春にはうぐいすの鳴き声も聞こえ都会の喧噪を忘れゆっくりとした時間を過ごすことが出来ます。
宗純王廟(一休禅師の墓)
禅師は文明13年(1481)11/21に88歳で示寂されたがこれに先立って文明7年(1475)
ここに寿塔を立て慈楊塔と名付けられた。前面の庭は禅院式枯山水の様式で室町の古風を存している。
現在墓所は宮内庁が御陵墓として管理をされており門扉に菊花の紋があるのもそのためである。
庫裏、東司、唐門
僧侶の居住の場であり時食を調える場である。
この庫裏は方丈新築時に同じように前田家の手で新築されたものであり、
江戸初期の建築様式をそのまま残している。
また東司(お手洗い)と唐門は慶安3年(1650)方丈再建の時に新築されたものである。
方丈
方丈は住職の接客や仏事を行うところであります。
江戸時代慶安3年(1650)に加賀三代目藩主前田利常公の寄進により再建された。
同候は元和元年(1615)大阪夏の陣で大阪に向かう途中、当寺に参詣した。
一休禅師への崇敬の念を起こすとともに寺の荒廃を嘆き酬恩庵再興に乗り出した。
一休禅師木像
方丈中央の内陣を昭堂と称しここに一休禅師の木像を安置してある。
この木像は一休禅師逝去の年に高弟墨済禅師に命じて作らせたもので自身の頭髪と髭を植えたとされている。
襖絵
襖絵は狩野探幽斎守信の49歳の時の筆によるものである。ショウショウ八景、林和靖、陶淵明が描かれている。
今現在あるのは複製画であり本物は寺の宝物殿に収蔵している。
方丈庭園 南庭
南庭は宗純王廟と虎丘を背景としてこれら建物の北部斜面を利用してサツキの刈込があり西部に大きい蘇鉄が
植えられている典型的な江戸時代の禅苑庭園である。刈込から軒下までは白砂が敷き詰められておりさっぱりとした中に落ち着いた雅味をあたえている。
東庭
東庭は大小の石が立ちまた横になる様を十六羅漢になぞらえたとされる。
北庭
北庭は禅院枯山水としての蓬莱庭園である。東北隅に約2メートルの巨石を配しいわゆる観音石として用いている。
これに他の集団石組をもって枯滝落水の様子を表現している。
その昔、正面には木津川を上下する白帆を眺めることが出来また晴れた日には比叡山を望んで楽しんだと言われる。
これら三方からなる庭園は江戸初期のものとしては第一流であり当代庭園の白眉とされている。
この作庭は石川丈山、松花堂昭乗、佐川田喜六の3名の合作とされている。
本堂(法堂)
本堂は仏殿ともいい内部には本尊釈迦如来坐像、文殊普賢菩薩像が安置されています。
当本堂は山城・大和地方の唐様建築中で最も古い建造物であります。1429年から1441年の永享年間に
室町幕府六代目将軍足利義教公の帰依により建立されました。
開山堂
この開山堂は大正時代に改築をされたものだが様式は完全に昔のものを残している。
堂内部には妙勝寺を創建した大応国師(南浦紹明)の木像が安置されている。
これは一休禅師が荒廃をした妙勝寺を再建し63歳の時につくられたものである。
虎丘庵
虎丘庵はもと、京都東山の麓に在ったものを一休禅師74歳の時、応仁の乱のためこちらに移築したものである。
扁額「虎丘」の字は禅師によるものである。茶室造りの静寂穏雅な建物で屋根は檜皮葺である。
周囲庭園は禅院枯山水のもので東部は七五三配石による特殊なもので
大徳寺山内真珠庵の七五三庭園と同一手法によるものである。作者は茶道の祖といわれる村田珠光と伝えられている。
鐘楼、浴室
慶安3年、前田家から当寺再建時に新築されたものである。
宝物殿(一休禅師頂相、一休禅師遺偈他)
一休禅師の頂相や遺偈などの墨跡他を展示している。
旧墓地
能楽観世流三代音阿弥元重、十五代元章、十九代清興、江州観音寺城主佐々木承禎、
茶人寸松庵等禅師の遺徳を慕ってこられた名士の墳墓がある。
三本杉
元は一休禅師、蓮如上人、蜷川新衛門の三人によるお手植えの杉として500年の緑を湛えていたが
寿命となり今は昭和40年に植えられた2代目である。
少年一休像
少年時代の一休さん。手に箒をもち掃除をしている。
現在の世の中の汚れもこの箒で一掃して明るい世の中にしたいとの願いがこめられている。
一休和尚碑(諸悪莫作、衆善奉行)
一休和尚筆七仏通戒偈「悪いことはするな、よいことをせよ」の意。