おてらだより6月
陰徳の功罪
修行道場では、「陰徳を積みなさい」という教えが古くから伝えられています。陰徳とは、見返りを求めない徳のことを指し、人知れずに行う施しや隠れた善行を含みます。そのため、「功徳」の中でも最も尊いものとされています。「諸悪莫作衆善奉行」という七仏通戒偈の教えに基づき、陰徳の重要性が説かれます。また、達磨が「無功徳」を説いた逸話もあり、無償の善行の尊さが強調されています。
しかし、陰徳を実践することは、私たちにとって必ずしも簡単ではありません。日常生活では、物を買う際に対価としてお金を支払うように、私たちは常にGive&Takeの関係性を意識してしまいます。結果として、どこかで見返りを求めてしまい、そのことから自分が陰徳を実践できないことに悩む人も少なくありません。また、日常においても、行為に対してあからさまに対価を求められると、興ざめしてしまうことが多いです。
このような状況で、私たちはどのような心持ちで陰徳を実践すべきなのでしょうか。まず、陰徳という名前自体に疑問を持つべきかもしれません。徳に見返りを求める、求めないという二元論を持ち込むことで、私たちは無意識のうちに自身を縛っているのではないでしょうか。シンプルに、人の役に立つことに喜びを感じる、そのような気持ちで十分ではないかと思います。「名乗るほどのものではありません」と立ち去る必要はなく、シンプルに「ありがとう!」と受け取れば良いのです。
また、見返りを求めること自体も否定すべきではありません。ただし、損得だけで考えないことが大切です。短期的な視点だけでなく、長期的に見れば、常にGiveしてくれる人には多くの人が集まり、その結果として大きな徳を得ることができます。かつては情報の秘密性に価値がありましたが、現在では情報の民主化が進み、誰でも平等に情報を得られる時代です。情報は隠すものではなく、積極的に発信することで価値が生まれる時代となりました。良い情報を発信している人には常に人が集まり、情報も集まってきます。
陰徳の実践において重要なのは、徳を個人間のやり取りだけで考えるのではなく、社会全体で循環するものとして捉えることです。ある人が「徳は日本や世界、大きな社会全体で循環しているものであり、一時的に徳が相手に移ったところにフォーカスしすぎると損と考えてしまう」と言いました。これは非常に的を射た意見です。徳は社会全体で回り、個人だけではなく全体の利益として捉えるべきです。
現代における陰徳の在り方は、徳を積極的に世界に発信していくことにあるのではないでしょうか。限度のある徳の貸し借りに囚われるのではなく、社会全体で徳の総量を増やすことが、私たちにとって最も素晴らしいことだと思います。